8月の海底と弓。またの名を禅。

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シュノーケリング中に見た海中

最近の体験と絡めて、禅の話。

8月上旬、人生で2回目のスキューバダイビングをした。船で30分くらい離れた沖でのダイビングだ。重りとタンクを背負って海に入った後、口呼吸の練習のために海の中を見てみたら、前回のダイビングの時よりずっと深く(10メートルもなかったかもしれないが)、曇天のせいで海中が暗い。即座に「うわぁ…これ潜るの?」と思った。ロープが潮の流れで揺れて、手繰って海底に降りていくのも一苦労。やっと下についたと思ったら、連れが沖に流されたので、拾いにいく間少し待っててとインストラクターに言われて、海底に一人取り残された。すぐに戻れない距離の海の底で「ここで咽たらアウトじゃないの?」と、一人で潮の流れに揺られながら、悪い方に考えないように「必死の平常心」で慣れない口呼吸を続けた。
その後、少し海中の風景を見ることはできたものの、20分でギブアップ。船上でダイバー達を待っている間に今度は船酔いになって完全にグロッキー。その敗北感といったらない。
前回も台風後で潮の流れはそこそこ強く、それでも40分の遊泳は出来ていた。唯一違ったのは海の深さだけだった。「簡単に海上には戻れない」という自分で生み出した恐怖が、失敗を招いた。

自然ではなく「己に負けた」という思いが強く、ダイビングはもはや禅の修行だという結論に至った。心が乱れると恐怖心が膨れ上がる。そうなると、美しいサンゴも、カラフルな魚も、鳥みたいに優雅に泳ぐウミガメも、陸の世界では見ることのできないあらゆる美しいものが無に帰す。同じ風景を見ていても、心のありようで意識に入って来るものが異なる。海の美しさをフルに楽しむには、自分の心にゆとりを確保しなければならない。これが禅じゃなくて何なのか。

禅に絡んでもう一つ。

今年から週1回ペースで弓道をやっている。これも禅の世界以外の何物でもない。ダイビングと違って命の危機は感じないが、少しでも迷いがあると的に中らない。
弓の世界では心身一如。心と身体を別々に捉えるのは西欧の考え方だそうで、日本ではもともと心と身体を分けて考える習慣は無かったそうだ。「心が整っていれば、自然と正しい動きができて的に中る」らしい。体を意識して動かそうとするな、的に意識を集中させるなと言われる。聞いただけだと「何無茶苦茶なこと言ってるの?」と思うのだが、実際にやってみると精神が体と繋がっているということを実感する。弓を放つ前、頭上に掲げた時点で外すか中るかだいたいわかる。モヤモヤ、ザワザワしてると間違いなく外す。
所作を誤って弦が腕にあたるとかなり痛い。それが恐怖心となって、抜け出せなくなることもある。昔からある弓引きの病気のような症状で「早気(はやけ)」というものもある。本来であれば矢を放つ前に数秒待つべきところ、中てたいという気持ちで頭がいっぱいになってすぐに矢を離してしまう。結果を左右する根本的な要素は自分の心だ。28メートル先の的に中てるには、無我が求められる。

日本のヨガ教室で触れるスピリチュアルはどうも苦手なのだけれど、ダイビングと弓における禅の世界は、もっとストイックで合理性を感じる部分が私にはあっていた。「自分を褒めてあげましょう」的なフォローが無いのがいいのかもしれない。実際、船酔いでヘロヘロの私に対してベテランダイバーたちは、よく見る光景と言わんばかりに対応は極めてクールであり、各々横になったり無言で目を閉じて座っていたり船の上では好きに過ごしていた。しかし、海の中にあって、ダイビングは下手をしたら待っているのは死。死ぬのは勘弁していただきたい。潜る前の準備の部分でお手軽要素が無いというのも面倒くさがり屋の私には少々ハードルが高かった。あと、ダイビングには自然という受動的な美しさはあるが、弓には所作の美しさという能動的に生み出すアートがある。この違いも大きかった。

そんなわけで、私の禅修業は弓一択。
けれど、弓とダイビングに共通点があるのは間違いない。弓道家とダイバーの対談があったら是非見てみたい。

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