
オランダへ行ってきた。片道11時間、時差7時間。九州ほどの大きさしかないヨーロッパの小国。訪れた町は、アムステルダム、ユトレヒト、ロッテルダム、デルフト、デン・ハーグ、ハーレム。
どうしてオランダに行こうと思ったのか、確固とした理由は思い出せないが、英語をもっとも流暢に話す非英語ネイティブ国、人種・性差別をしない、合理主義、服装はジーンズにスニーカー、長身、あたりのキーワードを耳にして、なんとなく自分に合っていそうだと思った。(後にオランダ人に「この国はね、マーケティングがうまいんだよ」と、言われたこともあったが、もちろんすべての人に言えることではなく、そうではない人もいるだろう)
実際に行ってみた後の印象は、英語がみんな流暢、人が穏やかで親切、美しい風景、長身、あたりで、想定を大きく覆されるような部分は無かった。というか、予想以上に良い国だった。
機上からみたアムステルダム周辺の風景は、成田空港周辺を上から見た時とほとんど変わらない。農業の国らしく、緑のパッチワーク状の大地が続く。
アムステルダムは美しい風景をバックに、ずらっと自転車が並ぶ光景が衝撃だった。運河沿いに隙間なく駐輪されていて、ため息が出るほど美しい町なのに、あれでいいのだろうか、と思わざるを得ない。通勤時のラッシュは、ベトナムのバイクを彷彿とさせる。無理やり道を渡らないといけない点は、ムンバイでの道路横断を思い出させる。ちなみに車は歩行者優先で必ず止まってくれる。「自転車>歩行者>自動車」という優先順位があるようにみえた。アムステルダムではAirbnbが大流行で、人々はカナルボートに乗りながら「綺麗なAirbnbの部屋がいっぱいあるね」と言いながら家を眺めるらしい。(どこまで冗談かわからないが、オランダ人談)司馬遼太郎さんの『オランダ紀行』に書いてあったが、オランダ人はスペインの統治を逃れたあとはプロテスタントへの傾倒が強くなり、自分が正しい生活をしているということを包み隠さず見せるため、窓にカーテンをほとんど引いていない。実際、オランダ人と道を歩いていると、「みてみて、あの家の中に椰子の木があるよ!」なんてコメントがあったりして、外から家の中を覗くことにもあまり遠慮はない様子だった。ちなみに、最終日に唖然としたのだけれど、アムステルダム中央駅のコインロッカーは10ユーロの使用料を取られる。小さな町では5ユーロだったのが、10ユーロ。東京駅は一番高くて700円のようだが、もっと強気に出て良いのではないか。

2日目の夕方、アムステルダムからユトレヒトへ電車で移動。オランダはICという電車で各町を繋いでいるが、今回訪れた主要な町から町への移動は長くても30分程度。電車もわかりやすい。ユトレヒトの駅は最近改装されたそうで、駅が巨大なショッピングモールと併設されていた。その駅を出ると、アムステルダムとは全く違う、こぢんまりした街並みが続いた。さらにアムステルダムと違う光景は、カナル沿いに(橋の上だけではなく、水面の高さに)レストランやカフェがならんでいることだ。夜、友人がボートを持っている友達にたのんで、カナル・ツアーをやってくれた。自分の目線の上にレストランがあり、家々を見上げながら町の雰囲気を楽しんだ。風が強くてもまったく風を感じない。ボートを持つ人が多いというわけではないが、夏場はボートを持っている人が人を集めてボートの上で飲み食いしながら時間を過ごすらしい。特にライセンスもいらず、飲酒運転も可。


4日目はユトレヒトからロッテルダムへの電車が車線トラブルで運休しており、ユトレヒトの駅でどうしようかな、と思っていたところ、隣で同じく電光掲示板を見上げている学生風の女の子がいた。彼女に電光掲示板に振替運転情報が書いてないか聞いてみた。(掲示板は全部オランダ語表記)すると彼女も大学へ行くのに同じ方向へ行かなければならないが、特に情報は表示されていないと言う。駅構内にいた警備員風のおじさんたちに聞いてみたら、自分のスマホで調べてくれて、一旦空港へいって、そこからロッテルダムへ向かうしかないと言う。つまり来た道を戻れと言うことだった。空港行きICに乗り込んで20分ほどしたところで、彼女が「電車が運転再開したようだから、ユトレヒトへ戻った方が早い」と教えてくれたので、途中でユトレヒトへ引き返した。結局、彼女はユトレヒトから別の電車へ乗り換えていったが、とても親切な子だった。彼女は最後にニーラと名乗った。インドでおなじみの名前だ。
ロッテルダムに着いてから駅で荷物をロッカーに預け、デルフトへ移動した。ユトレヒトよりもさらに小さな町で、風景もずっとのどかだ。小3時間もあれば、まわり切れてしまうくらい小さい。ここに住んでいる日本人の翻訳者さんとカフェで2時間ほど、オランダのビザにまつわる話や、現地での生活についてお話を聞いた。デルフト駅へ向かう時には雨が降り出していて、途中、ものすごい音で雷が落ちた。最近は雷雨が多いのだそうだ。

5日目はおよそ10年前にウクライナで知り合ったウクライナ人の友達と会う約束があった。彼女とは5年ほど前に、ポーランドのワルシャワで再会していたが、今回はまたそれ以来の再会となった。初めて会った時はまだ17歳の高校生で、当時から建築家になることを目指していた。彼女は、都市開発と建築で2つの修士を終え、ロッテルダムでプロの建築家になっていた。第二次世界大戦で町の大半が焼かれてしまったロッテルダムは、先進的な建物が多い。まさに建築家にとっては夢のような町だ。ひととおり町を案内してもらった後、彼女はパン屋にパンをピックアップしに行くといった。オランダには捨てられてしまう食べ物を減らすため、ベストコンディションを過ぎた食品を安く売るシステムがあるらしい。Too good to goというシステムで、調べてみるとヨーロッパ8カ国で普及している。パン屋につくと、ご主人がメロンほどの大きさもある大きなパンを4つ袋に詰めて彼女に渡した。これで5ユーロだというから信じられない。オランダ人はその日に作られたフレッシュなパンを好むので、2日目以降のパンは売れないのだそうだ。日本でもぜひ取り入れてほしいシステムだと思った。彼女のアパートについた後「どうやって作るかわからないけど買ってみた」らしい、うどんを茹でて夕食とした。オランダではCDよりもコピーのできないレコードの方が税金が安いらしく、レコード屋がまだたくさんある。彼女の家にもボーイフレンドが集めたというレコードがたくさんあった。私が10年前にあげた村上春樹の日本語の本も、本棚に並んでいた。フリーランスのアーティストだというベルギー出身のボーイフレンドはイスタンブールでの展示会を終えて夜に帰宅し、3人で少しのあいだ紅茶を飲みながら話をして、夜9時ごろ、私はトラムに乗ってホステルへの帰路へついた。


6日目はロッテルダムからアムステルダムへ戻る途中にあるデン・ハーグとハーレムへ立ち寄った。あいにく、一日中雨だったがデン・ハーグの美術館はすばらしく、オランダに来てから5つ目の美術館でも全く飽きることがなかった。ニューヨークのハーレムをオランダ人が「ニューハーレム」と名付けたそうだが、その名前のベースとなったのが、アムステルダムから電車で20分ほどのところにあるハーレムだ。聞けばブルックリンやブロードウェイもオランダ人が名付けたという。ニューヨークのきらびやかなイメージとは全く違う、これまたこぢんまりした静かな町だった。破風の屋根を持つ古い建物がたくさんあって、散歩するだけで十分楽しい。中央の教会にはモーツァルトが11歳の時に弾いたと言うパイプオルガンがあるというので楽しみにしていたが、この日に限って観光客お断りのセレモニーが行われており見ることができなかった。


夜にはアムステルダムに到着し、初日にも足を運んだミュージックライブハウス、BIMHUISへ行った。17-24歳のオランダ・ドイツ、イギリス人で構成されたユース・ジャズバンドのライブをみるためだ。ユースなのでどんなものかと思っていたけれど、これが度肝を抜かれる素晴らしい演奏だった。説明によると、みんな最低でも10000時間は練習を重ねて来たエリート集団らしい。数年前に日本でも話題になった映画『セッション』で描かれたユース・バンドのヨーロッパ・バージョンといったところ。演奏する彼らも、指揮をとっていた先生たちもとても楽しそうで、目が輝いていた。3時間きっちり楽しんで12ユーロ。
あっという間に過ぎた1週間だったが、これまで訪れたヨーロッパのどの国よりも好きな国になった。フランス、ドイツ、スペイン、イギリスとは全く色が異なる。街全体にあるゆったりした雰囲気、物静かでとても親切なオランダ人、町は綺麗だけど自転車の駐輪を優先してしまうような合理性は親近感が持てる。ユトレヒトで数人と夕食を共にした時「オランダ人としてもっとも大事だと思うことは?」と聞いたら「Be yourself(自分らしくあれ)」と返事があったように、この国にはまったく気取った感じがない。英語よりもずっと前にオランダ語を習った日本人がいたくらい、日本にゆかりのある国。もう少しじっくりオランダという国を味わってみたいと思った。