
GWのちょっと前から2週間ほど旅行へ行った。大阪、淡路島、奈良、ブルガリアのソフィア、ギリシャのアテネ、ミコノス島、サントリーニ島と。





最初は海外に行く予定は立てていなかったのだけれど、2015年10月の台湾旅行以来、日本の外に出ていなくてちょっと危機感を覚え、一ヶ月くらいまえに20万円も払って衝動的にフライトを予約した。
大阪、淡路島は社員旅行で、ソフィアは世界一周中にハンガリーで知り合ったブルガリア人の友達に会いにいった。それ以外は一人でひらすらウロウロしていた。
昔は安宿のドミトリーに泊まって連れ合いが出来たりしたものだけど、なんだか今回は誰かと旅をする気分でもなく、ちゃんとキレイな部屋に泊まりたいという気持ちもあり、全部個室でBooking.comで部屋をとっていた。
奈良からミコノス島までの1週間くらいは寝不足が続いて結構疲れていて、「26歳のとき、よくこんな生活毎日続けていたなぁ」と、一睡も出来なかった飛行機の中で、世界一周11ヶ月をしていた頃の自分を振り返って感心したりもした。
宿泊先のオーナーとか、土産物とか、レストランとか、同じ宿泊客などと短い会話をかわしてみて、「場所は違えど、みんな似たような感じで日常生きているなぁ」と思った。あたりまえと言われれば当たり前のことだけど、国が違うとそこで生きている人たちは自分とは全く違う世界で生きているかのような幻想(?)を抱く。
行動範囲や人間関係が限られている生活がある程度続くと、今、自分が接している世界とか人以外の「別の世界」では「別の生活」とか「別の人生」みたいのがあるんじゃないだろうか、みたいな羨望みたいなものが自分の中でムクムクと膨らんでくるのだ。
それが一定の割合に達すると、「あ、これはいかん。確かめに行かないと」とフラリと外に足を向けたくなる。知人に「猫っぽい」と言われることがままあるんだけれど、たしかに猫が自分の縄張りを確認しに行くのとちょっと似ているかもしれない。「自分の住んでる地球がどうなっているか、ちょっと見に行かないとな」という気持ちになる。
奈良の三輪山に一人で登ったり、アテネの街中を一日15キロ歩き回ったり、ミコノス島の、海賊が侵入できないようにと作られたらしい迷路のような白い街の中をぐるぐる歩いたり、サントリーニのカルデラの崖っぷちを太陽ギラギラの中、うろうろしてみたりする中で、そこに住む人の日常と、非日常を楽しみに来ている観光客を横目にみながら「うん、どこの土地でも日常と非日常を分けながら、みんな齷齪生きているな」と、納得して帰って来たわけだ。

分からない人には全然わからないだろうけど、この無意味なように見える行動は、これから先もきっと定期的に必要になるだろう。いわば、本当に習性のようなもので。
その他にも現職に絡んで「観光」というものが人々の生活に与える威力についても色々と感じるところはあったのだけれど、それはまた別の機会に書く事にする。