異文化を「知ること」は「理解すること」と同意ではない。

インドのような異文化の泥沼のような国から帰って来ると、日本は同一性の強い社会だと感じる。

同じ言語をしゃべり、宗教が日常会話の中にトピックにあがることも特に無い。

仕事のシフトを作るのに、誰々さんはキリスト教徒だからクリスマスは絶対休みで、誰々さんはイスラム教徒だからラマダンの時期は午後シフトにしなきゃいけない、とかいう配慮はほとんどの場合において求められることがない。

でも最近、日本もちょっとずつ変わって来ているのかもしれないと思う事があった。

会社の同僚(日本人)にベジタリアンの女の子がいる。(ベジタリアンでもある種の魚介類なら食べられるというレベルのベジタリアンだ)

私は時々その子と食事に行くのだけれど、その時に、自分のまわりにいる人から、あまり気持ちのよくない言葉を投げかけられることがあるのだという話を聞いた。

「ベジタリアンのレストランの話をしていたときに、ある人に、そのレストランの料理はとてもまずくて、ベジタリアンはどうして好んであんなものを食べるのか理解できない」というような事を言われて、ショックを受けたのだと言う。

上司に、「ベジタリアンは肉料理を食べられなくて人生を損している。頑張って肉食に慣れて行くべきだ」と言われ、腹が立った事があるというようなことも聞いた。

レストランの話の件は、日本人ではなく、まがりなりにも宗教色の強い国からやってきた外国人に言われたということもあり、なおさら意味がわからなかったと、たいそうご立腹の様子だった。

私が数年間、外国の文化に身を浸した結果、自分の中に落とし込んだ考え方は「異文化は理解するものではなく、知っておくものである」ということだ。

「異文化を理解する」ことと、「知る」ことは全く異なる。

だって、異文化を理解することなんて、そう簡単にできるわけがないのだ。

例えば、イスラム教徒が金曜日の夕方にモスクでお祈りを捧げるということの重要性を、彼らの視点で理解することなんて、私には出来ない。

ただし、私は、彼らにとってそれが重要であるということは「知っている」。

「私にはあなたの行動の重要性を理解できないから、仕事を抜けてモスクに行く事など許可しない」なんて、言う事はできない。

「私にはあなたがその行動を重要だと考えていることを知っているから、仕事を抜けてモスクに行く事を問題にしない」のだ。

ベジタリアンの同僚のことも同じで、「私はベジタリアンになることの素晴らしさを個人的に理解することはできないが、そうすることが彼女にとって意味のあることだと知っているから、彼女の習慣を否定するようなことは言わない」のである。

自分と違う習慣や文化的背景を背負って生きている人のことを、いちいち理解しようとしていたら、時間がいくらあっても足りない。

「あ、そうなのね」くらいの反応でいいと思う。

大事なのは、それが「彼らにとっては重要なことであると知っておく」事で、「じゃあ、ベジタリアン向けのメニューもあるレストラン知ってる?」とか、「モスクのお祈りの時間は何時なの?」という質問を返せばいい。

もちろん、興味があれば、その習慣について聞いてみたっていいと思う。彼らだって、よほどの事が無い限り、嫌だ、とは言わないはずだし、私自身、聞いてみた事はある。わりと喜んで、その背景なり、歴史なりを教えてくれた。

日本の外に出ていた時、「日本人は国籍とか肌の色による差別意識があまりないから好きだよ」というような言葉をちょくちょく聞いた。

同じ文化の中に行きて来たからこそ、異文化が作り出す衝突を知らず、だからこそ差別意識も持っていない。

歴史を振り返ってみても、本来は異なる文化や習慣を受け入れることの上手な国民だと思う。

だからもしその「異なるもの」が自分の前に現れたとき、「ああ、そうなの」と言ってあげることも、きっと私たちにはそんなに難しいことではないはずだ。

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