日本滞在中、大阪造幣局の「桜の通り抜け」がちょうど一般公開されたので、雨の中、ふらっと行ってみた。大阪の桜は、東京のそれと違ってハデ。文字通り、こぼれるように咲いていた。
ハデな桜たちに圧倒されながら歩き続けていたら「通り抜け」の終盤で、ひっそりと、しだれ桜がたたずんでいた。毛筆の細い文字で「雨情枝垂」と書かれていた。関西弁のおばちゃんが背後で「まぁ、やさしい色ねぇ」と言ったとき、「こんな感想、インド人からは絶対出て来ないな」と思った。「雨が降って無理矢理花を落とされてしまった桜がかわいそう」なんていう感性は、インドには存在しない。それに気がついたとき、無性に日本に帰って来たくなった。植物に対してさえも、「やさしい」とか「かわいそう」と思える感性を、自分の中から失ってしまいたくない、と思った。
京都には観光客がいっぱいいて、お土産屋のおばあちゃんたちが日本語で外国人観光客をおもてなししている光景がとてもいいなと思った。和やかな京言葉はしっかりと日本語のわからない彼らにも通じていた。京都の人たち独自のおもてなし気質から来るものなのかもしれないけれど、かつて感じていた閉鎖的な日本の雰囲気は、あの街には全く無かった。
猫のように幸せそうな顔をして眠る奈良公園の鹿と、なんにもない野原にスッと立っていた枝垂れ桜が忘れられない。奈良では一枚も写真を撮らなかったけれど、写真が無い方が記憶にしっかり残るような気がする。文字通り、目を閉じると奈良公園の桜がはっきり浮かぶ。東大寺の盧遮那仏を見たインド人のおばあちゃんが「お顔が和やかねぇ」と言って見上げていたのが印象的だった。
子供時代を過ごした横浜の家の近所にある桜並木を電車の中から見た。毎年一番始めに咲くピンク色のソメイヨシノはもう葉桜になっていたけど、昔と同じように長い桜並木の間で唯一しっかりしたピンク色をして川沿いに立っていた。毎年、駅へ向かう桜並木の下を歩いている時にあの桜が花をつけると、その日からが私にとっての春だった。
街いっぱいに咲いている桜に「おかえり」と言われたような気がした。今まで何回か日本へ休暇で戻った時には「帰って来た」と実感したことはあまりなかったけれど、そんなことを本気で思ってしまうくらい、5年ぶりの日本の春は美しくて、なつかしかった。生まれた国で、春という特別な季節に何を思っていたのか、忘れていた感覚を思い出した。
もちろん、ずっと日本で生活していたら、日本の春にここまで執着することもなかっただろう。けれど、お気に入りの桜たちに会える短い期間を逃してしまうような生活はもうしたくない。これから先、どこでどんな生活をしていくにせよ、「桜のやさしい色」を感じられる人間でいたいと思う。