先の見えない生き方。

仕事がほぼ終わりかけた金曜日の夜、韓国人の同僚が私のデスクへやってきて言った。「どうして私の人生はこんなに退屈なものになっちゃったんだろう。仕事をして、夕飯を作って、眠るだけの毎日なんてつまらない」何を手にすれば退屈にならないのか、と聞いても、彼女自身にもそれはわかっていなかった。「オーストラリアにいた時には、もっとストレスも少なかったし、クライアントから怒られる事もなかった」自分の人生において、あって欲しくないものはわかっていても、欲しいものはわかっていない。そういう印象を受けた。

ムンバイで働いている外国人の同僚たちは、「先の事などわからない、それでいい」というスタンスでいるように思う。それとなく、今後はどうしていく予定なのかきいてみても、「来年のことなど聞いてくれるな」、という回答が多い。私は、そういう彼女たち(実際、ほとんどは「彼女」たちだ)のことを、ある意味とても強いと思う。私はどちらかというと、先に目指すべき姿が見えていないと、落ち着かないタイプだ。大げさに言うのなら、夢がなくてはうまく生きて行けない。今、行っている事が、その先にあるものにゆくゆく活かされて行くと感じられないと、すぐさぼってしまうし、もともと忍耐力がないので、すぐ腐ってしまう。楽しく生きられない。

特に、世界一周をしてから、こんな貴重な経験をして、その結果、縁あってムンバイにやってきたのだから、ここで一旗あげないと、いままでの事が無駄になってしまう、と感じていて、はてさて、あれから2年近く立とうというのに、さらに、もう30歳になるというのに、一体全体、自分は何をノロノロしているのだ、と、悶々としてしまう。

ムンバイは魅力的な場所だが、やっぱり日本の方が気が張らなくていいとか、ゴハンがおいしいとか、遊びに行ける場所がたくさんあるとか、情報が多いとか、ちゃんと日常生活でカロリーが消費できるとか(ムンバイでは暑い気候とリキシャが安いせいで、ぜんぜん歩かない)、今回、久々に帰国してみて、日本の良いところも、ムンバイの満足できない部分も見えた。あたりまえだが、どちらもパーフェクトなんかじゃないのだ。しかし、どちらも自分にとってパーフェクトじゃないから、また次の場所に移るというのは、ほとんど逃げだし、もうフラフラしている時間は自分には無いと思っている。昔、小学生の時に参加したキャンプで、当時の私にとっては年長の中学生だった少年が、「俺は30歳で死にたい。30歳に死んでも、悔やまない生き方をしたい」と言っていたのが、どういうわけか、自分の中にずっと強く刻まれているからだろう。

先の見えない生き方はしたくない、というと、ひどく保守的なイメージだが、「目指すものを目指しているけど、どうなるかわからない」、ということと、「そもそも目指すものがわからないから、先が見えない」というのとでは、ぜんぜん意味が違う。私は前者はとても魅力的な生き方だと思う。つまり、目指しているものに進んでいるつもりだけど、一体どうなっちゃうのかわからないくらいのスケールのあることをしている、という生き方なのだ。

ちなみに今夜は何も作りたくなくて、パスタを食べたかったから、レトルトのパスタを茹でたら、ついていたソースがカレー味だった。パスタを目指して、形はパスタだけど結局おなじみのカレーの味が勝ってしまった。きっと、人生においても、レトルトなんていう手抜きをせずに、ピュアにパスタを手に入れる事に奮闘すれば、今は先が見えなくても、最終的には目指したものに、一番近くなるのだと信じたい。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中