聞く日本人、話すインド人

「人に話をさせるのが上手」と、インド人の友人に言われた。上手かどうかはわからないが、単純に、人の話を聞くほうが好きであって、自分の考えや思っていることを言葉で表現するのが苦手なだけだ。人の話が好きな理由は、自分が話すよりも多くの新しい発見ができるから。ただ我侭な点もあって、興味の無いことにはぜんぜん耳を傾けない。だから知りたいことだけピンポイントで回答が帰ってくるように質問してしまうのだ。言葉による表現は、文章によるものは好きだが、しゃべるのは好きじゃない。だからいつも、言葉以外に表現の術をもっている芸術家が羨ましいと思う。

日本に居たころ、大学のサークルや、勤めていた会社の営業で「聞く」ことを徹底した訓練を受けることがしばしばあった。しゃべりすぎて、結局必要な情報を時間内に得ることができない、という落とし穴を、克服するための訓練だったように思う。これはトレーニングだったが、私にとっては得意な分野だった。ある日、とある試験で英語のグループディスカッションをやらされたとき、英語のスキルはグループの中でも格段に低かったが、みんな自分の意見を主張するばかりで、課題はグループでひとつの結論を出すことである、ということを忘れていた。私がしゃべったのは、「時間切れまであと10分しかないから、意見をまとめよう」と、言って、絞られた選択肢に対して結論を出すための時間を与えた時だけだった。それでも、一番評価されたのは、一番英語のレベルの低い自分だった。この時も比重を置かれたのは、他人の意見を聞くことだった。

日本人は、「他人の意見をききなさい」と、子供のころから教育されているように思う。それは、団体行動を和を乱さずに行うということが必要とされる社会システムがあるからだ、というようなことを本で読んだことがある。ガツガツ主張ばかりして、協調を重んじない人間は、疎まれる社会なのだ。

しかし、インドは違う。まったく逆だ。子供たちは、集団の中で主張するようにと教育される。言語や宗教など、いろんな文化がごちゃまぜの社会では、統一性を求めるほうが無理なのだ。異なる意見をばら撒き、その上でバランスを保っているように見える。ひとつにまとめる必要はない代わりに、違う意見があるということを、各々主張することで、偏りのない社会を構築している。

インド人のグループで食事に行ったり、お酒を飲みに行ったりすると、当然会話が始まるのだが、彼らの会話は多くがキャッチボールではない。どちらかというとディベートだ。前の人間の意見よりも鋭い主張や、面白い話をどんどんどんどん積み重ねていく。「あれは××だった」「いや、そうじゃない。××だ。なぜなら、こうだからだ」「ちがうちがう、それよりもこうだ」と、言った場合に、一人ひとりがステージを展開する。当然、会話の中に質問はほとんど無いし、ひとつのトピックを落とし込んでいくような会話ではない。これは、これで、なるほどコメディショーを見ているようで面白いのだが、人の会話をじっくり聞きながら内容を深めていくような会話に慣れている人間には、ゲラゲラ笑うインド人たちを前にして、たまに「何がそんなに面白いんじゃ」と、冷めた感情を抱くこともある。

ところが、大人数ではなく、1対1や、少人数のグループではもちろん勝手が違ってくる。キャッチボールが出来る。こういうときには、ホッとする。そうなると、ああ、やっぱり日本人だったんだな、というアイデンティティを自覚する。最近はちょっとインドまみれだったので、久々にチャットで話した前職の先輩に「ワタミに行ってお酒を飲みたい」と、こぼしてしまった。「じゃあ、あした7時に新宿の東口ね、おやすみ」と、冗談で締めくくられ、チャットを閉じた後、そういえば夜の9時とか10時から始まるパーティーの文化にも慣れないなぁ、と、またひとつ、インドに馴染みきれていない日本人としての自分をを自覚するのだった。

1 Comment

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

w

%s と連携中