2011

先日、2010年12月にタンザニアのザンジバル島で出会ったアメリカ人から新年を祝うメッセージが届いた。彼は45歳で、当時はタンザニアの私立学校で教師をしていた。私はザンジバルを離れた後、アルーシャというサファリの拠点になる町へ移動して、2週間ばかり、そのアメリカ人の家に居候していた。年末らしいイベントの乏しかったアルーシャの大晦日、彼がマサイのマーケットで買った牛につける大きなベルをならして、HAPPY NEW YEAR!と新年を祝ったのは、まるで昨日のことのようなのに、2012年を目前にして、時の流れの速さを感じる。

3月11日、コスタリカのサン・ノゼからニューヨークへ向かうフライトを予定していた現地時間の朝4時ごろ、iPhoneでニュースをチェックしていて東北の地震がおきたことを知った。ニューヨークのブルックリンで滞在したユースホステルに設置してあったテレビには、次々に東北の映像が流れ、まるで地獄絵図のようだと思った。2010年の10月にハンガリーのブダペストで出会ったニューヨーク出身のアメリカ人の青年と、2006年に出会ったウクライナ人の友人とニューヨークでの再会を約束していたので、彼らと短いニューヨーク観光を楽しんだ。ブダペストで出会った青年は、その当時から夢見ていた世界一周旅行を現実にし、今はヨーロッパを旅行している。
11ヶ月の世界一周旅行を終えて、日本に帰ってみたものの、余震と放射能のあやふやな情報に嫌気が差して、ベトナムのホーチミンでホテルを開いた日本人の友人のもとへと逃避。1ヶ月間、そのホテルで仕事を手伝いつつ、骨休みをした。何かを得ることや、帰国後のことを考える気を殺ぐホーチミンの気だるい暑さの中、路上に放置してある誰の物とも知れないバイクに座り込んで安宿外を行き来する旅行客を眺めつつ、ふらふらと彷徨う旅行者ではなく、インドに住む一人の人間として、何か確かなものを築きたいと漠然と思っていた。
5月から2ヶ月間、インドで何をするのか迷い、友人の縁もあって結果として今勤めているムンバイの会社への就職が決まった。7月にはウクライナ人とマレーシア人の友人とインドを旅行することを決め、ムンバイから北はデリー、パキスタン国境のアムリトサルまで、久々に観光客らしい旅行をした。このときすでにインド渡航は2010年5月以来3回目で、空港に降り立ったときには懐かしさを感じるようになっていた。ウクライナ人の友人は、あまりに異なったインドという国に不平が絶えなかったが、誰がなんと言おうと、私はインドが一番気に入っていて、ここで生活していくことができる、と確信したのもこのときだった。
8月にビザを取得するために日本へ戻ってからの2ヶ月は、2011年でもっともひどい2ヶ月だった。なんとか状況を打開しようともがいても、なんら進展はなく人生で一番ストレスを味わった期間だったとも言える。インドへ移住するというファーストステップさえも滞り、それでもインド以外に次のステージは考えられずに、毎日イライラしながらも、最終的には長きに渡って望んだビザを取得し、10月に晴れてインドのムンバイへと生活の場を移した。
入社と同時にたくさんの外国人同僚の帰国を見送り、この2ヶ月半、毎日ほぼ11時間は闇雲に働き、気付けば今はもう12月。世界一周中に出会った人たちからの朗報や、望んだ地での始めてのクレイジーな誕生日とクリスマスがこの1年の締めを飾った。「自分以外に自分の夢を叶える人はいない」という、ザンジバル島で出会ったアメリカ人の友人からのメッセージのおかげで、忙しい毎日の中でずれかけていた原点を見つめなおすことができた。これまでの人生でもっともタフで楽しかった2011年。インドという毛色の変わった国で生活の万事がうまく行っているとは決していえない。でも嬉しいことや感動することが、日々のストレスを凌ぐには十分ある毎日だ。来年の今頃、今イメージしている未来にすこしでも近づいていられるよう、能動的な毎日を送りたいと思う。

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